↓バグのようですが,面白いので放っておきます。
武蔵一宮 ― 2010年05月26日 20時00分16秒
今日は,大宮でした。どうも県庁所在地と縁がないんですよね。千葉といい埼玉といい未だ職務で県庁所在地のに入ったことがありません。
ところで,この日はとっとと終わったので,近くの大宮公園に寄ってみました。
広い。浦和はよく行くくせに大宮は,ほとんど行ったことがなかったので,ここは初めてでした。大宮で降りたのは,記憶にある限り,おそらく二回目です。
大宮公園の隣に,氷川神社があります。
武蔵の国の各所にある氷川神社の総本山です。
氷川女体神社は,今年の正月も含め,よく行っていたので,氷川神社にはいつか行ってみたいと思っていたんですよ。大宮に総本山があるというのも興味がありましたしね。
社殿への入り口は,朱塗りで,豪勢な造り。関東では,寺はともかく,神社では,あまり見かけない感じで,京都の神社を思い起こさせます。
中には,能舞台があるのも関東では珍しいのではないでしょうか?神社マニアではないので詳しくはないですが。
拝殿から本殿が見えますが,本殿へは行けません。
なんかこの感じ,どっかで見たことがある。
そう,出雲大社と雰囲気が似ていると感じました。
ここで参拝したのですが,手洗い等までは良かったのですが,礼拝法を一瞬忘れてしまい頭が真っ白になった状態のまま一拝二拍手一拝になってしまいました。
参道を通り駅に行く途中で,氷川神社の由来の案内を読んでみると,
祭神:スサノオノミコト
これって,もしや・・・
出雲族が出雲族の兄多毛比命が武蔵国造となり・・・
やっぱり出雲の系統なんじゃないですか。社殿を見て出雲を感じるなんて,我ながら良い感性している・・・。
2000年以上前に立てられたという点はともかくとして,継体天皇が出雲朝の分家筋(北陸地域の総督みたいな地位か出雲を宗主国とした分国の王?)にあたるのではないかと勝手に妄想している立場からすると,本家筋の関係者を地方の長官に任命するというのもあり得るんじゃないでしょうか。一応同系統だし。当時は,まだ各地に勢力があっただろうから。
つまり,本家の一族(名家,足利氏にとっての御一家である吉良氏や今川氏のようなものでしょうか)を武蔵野国造に任命して,一族がそこに移り住んで,本家である出雲の出雲大社を勧請して建立したのかなあ,なんて考えたりしました。
いくら継体天皇の系統が圧倒的になったとしても,たぶん当時は,出雲朝本家筋も権力はなくてもそこそこの象徴としての権威はあったのでしょう。壮大な出雲大社を作って(もともと大社に相当するものは,あったと思います。)歴代本家の祭祀を取り仕切らせることにし,これを司る権威のもと主祭者の地位が代々受け継がれていったんじゃないかと,それが出雲国造になったのではないかと思っているんですよ。一応,本家の顔を立てて,祖先の祭祀を行ってくださいと。
たぶん,大和が出雲を攻めたとしても重臣が悪いってことにして,本家には手を出さなかった気がするんですよね。で,権威だけ残して権力はとって行ってしまう・・・よくあるパターンじゃないですか。名目は,本家を救うってことですよ。家康だって秀頼のため(悪いのは取り巻き)って名目で関ヶ原を戦ったじゃないですか。
まあ,そうは言っても分家筋としては,そのままいつまでも権威をもたれても困るので,伊勢神宮とか違う権威を作っていったんじゃないのかなあって思ってます。
そういえば,氷川神社の中に宗像神社がありましたが,宗像って九州ですよね。小倉と博多の中間くらいにある。
この神社もなんか由来が不思議ですよね。九州朝系なんでしょうかね。
ところで,出雲大社系なら二拝四拍手一拝なのだろうか?
と思いましたが,調べてみると,通常どおりで良いそうです。
この二拝四拍手一拝って,出雲大社と宇佐神宮で採用されているそうですが,なんでなんでしょうかね?
出雲大社は出雲朝系の中心,宇佐神宮は九州朝系の中心で,強大な権威があるのですが,大和としては,決めた中心以外のところで,あまり権威を持ち続けられても困りますよね。
特に片や本家筋,片や嘗ての日本の代表国・・・こんなところに権威の象徴があったら安心できない。かといって怨霊信仰の強い日本では,潰すなんてどんな祟りがあるかわからない。
でも,自分たちが作った伊勢神宮がナンバーワンでなくてはいけないはずです。なんとか,他の二社には大人しくして頂きたい。
もしかしたら,この礼法には何か裏があったりして・・・(四拍手は祟りを鎮める意味があるという説もあるようです。)。
京都⑤ ― 2009年11月19日 20時17分08秒
弓とか持っているのは,初期の武士でしょうか。殿上人か?
こうやって,扇で昇殿するよう合図をするんだそうです。
中国とかだったら銅鑼とかならしそうですが,日本の方が何となく雅で風流な感じがします。
ここで小御所会議が行われました。徳川の時代が終わり明治維新への流れが決まったところです。
結局,邪馬台国ってどこなんだ? ― 2009年11月12日 18時12分48秒
この時代は,謎が多いので,面白いですね。
一部には,畿内説で決まりという報道もありますが,まだまだでしょう。
個人的には九州説っぽい指向を持っているのですが,最近は,併存説っぽい考えに変わってきています。
以下は,素人が,学術的調査を全く行わずに直感的に勝手に想像した解釈なので,適当に読んでください。
日本に,王朝を建てた連中ってのが主に2系統あって,
一つは,大陸系,秦朝やその前後の沿岸国,斉とか呉とかから来た連中。
もう一つは,半島系,古朝鮮半島諸国(大朝鮮帝国とかじゃないですよ)とかから来た連中。
で,大陸系の連中は,徐福かはともかくとして,蓬莱山への憧れや華僑にありがちなパイオニア精神で海を渡ってきた。
中国東岸を出発して,海流に乗って,まず琉球列島か種子島あたりに着いた。
しかし,
「こんな小さい島に住んでられるか」か「何もないし蓬莱山でもなさそうだ」
と帰りのための少数の守備隊を置いて,さらに海流に乗って進んだ。
まず着いたのが日向国。太陽に向かって進んでたら着いちゃった国。
もしかしたら薩摩大隅は,隼人とか話の通じにくい先客が大勢いて上陸しづらかったのかも知れない。
宮崎は,まあまあ平野も広いし暖かい。
「こりゃ良いとこ見つけた。」
と思って,拠点を作った。で,付近の調査もした。高千穂や霧島のような神秘的で良い場所も見つけた。
「でも,もっと東にも土地がありそうだ。」「蓬莱山はもっと東にあるかもしれない。」
と考えて,本隊は東に向かった。
ただ,帰りのことも考え,ちょとした砦を作ったり,ある程度の規模の植民をした。
そうして,次に流れ着いたのが,紀伊半島の南端。新宮か熊野あたり。
「なんか神秘的な山並みがあるな。奥が深そうだ。この辺は平地も少ないし,なんかありそうな奥の方に行ってみっか。」
という感じで,三本脚の烏に導かれて,大和盆地へ到着。
そこで,現地の人と交わりながら,当時で既に1000年以上あった中国の技術を見せつけて,一大勢力を構築。
「だいぶ奥まできちゃったし,もう月日もだいぶ経った。居心地も悪くないし何か帰るの面倒くせ~な~。」
と定着。
なお,一部は,さらに東に調査に行ったかも知れない。
その場合,陸伝いに海流を利用して東へ行き,銚子あたりで,陸が北に延びたことから
「これ以上東は無いな。」
と今の利根川の河口から当時内海だった香取海に入って,関東各地に定着。
こうして,近畿の大国と日向,関東の勢力が完成する。
さて,半島系の人々はというと,半島の先っぽから何となく流れ(勢い?)で北九州にも定着。
北九州に一大勢力を築いていきます。一部は,日本海側に沿って,出雲にも進出。ここにも一大勢力を築いていきます。
で,当初は,本国の影響を強く受けていたのですが,新羅,百済,高句麗等々半島内の国々の争いが激化していくうちに自我が芽生え初め,徐々に独立色を強めていきます。
そんでもって,いつのまにか半島諸国と並ぶ一王国が誕生します(倭王国,首都太宰府)。
ただ,一応半島諸国の一つという感覚はまだ残っているので,なにかと半島諸国の争いに巻き込まれると同時に,半島諸国同様このあたりの国を滅ぼして,最終的には,半島勢力圏を統一しようと遠征をしたりもします(古代の半島遠征はこれ)。
この国と大和盆地の王朝とは,お互い知っているものの,首都同士が遠いこともあって,最初の内は,争いもなく,何となくの関係にあります。日向は北九州にやや近いので,両方にいい顔をしていたかも知れません。
やがて月日が流れ,半島諸国も統一に向けた最終決戦に向かいます。
その戦い(白村江の戦い)に負けた北九州の倭王国は,唐の進駐軍に占領されてしまいます。
ただ,唐もここを占領し続けるのは遠いし,半島とも地理的にはちょっと違うので,現地人の王を置いて冊封国を作ることにしました。
何か適当な勢力はないかと見回したところ,目に付いたのは,何故か話の合いそうな大和の勢力。
「じゃあ,ここは君たちに任せるから後はよろしく。」
このころになると,大和王朝も勢力を十分に蓄え,倭王朝と戦ったりもして(お互いにこの戦いを「乱」扱いにして,例,磐井の乱),北九州を圧迫していました。
出雲は,半島諸国の争いに巻き込まれヒーヒー言って頼りない遠い本国より,近くて意気盛んな大和に付くなりなんなりしているうちに飲み込まれてしまったんでしょう。
ただし,出雲については,北九州とも別系統かもしれません。アメリカ移民にイギリス系・フランス系があるように,古朝鮮諸国の別の国系だったかもりれません。その場合,北九州は百済系で出雲(北陸も含む)は新羅系の人々による王国だったかも知れない。その場合,継体天皇の件もあるので,身近な大和王朝といち早く衝突が起きて,一進一退の後,吸収された可能性も考えられます(例えば,アレクサンダーのごとく強力なカリスマを持った継体天皇に大和側が一度敗れた可能性もあって,そのとき変に合併したため,JAL系とJAS系みたいに効率よくまとまらず遺恨が生じて,大化の改新とかが起こったりしたのかもしれん。)。
まあ,そんな中,白村江で決定的な一撃を食らってTKOされた北九州の王朝は,大和王朝に併合されてしまったとさ(最初は,保護国扱いで,後に吸収合併かな。)。
ざっと,こんな感じだったんじゃないかと思ってます(再度,注意しておきますが,素人なので学術的根拠はなんもありません。)。
結局,邪馬臺国はどっちなんだと言われれば,九州にも畿内にもそれに相当する国家はあったと。あとは,どっちに邪馬臺国という名前をつけたかにかかってるんじゃないかな。
小江戸観光②~休館中 ― 2009年09月10日 21時19分44秒
川越といえば,江戸が整備される前から武蔵の国の重要都市で,江戸近郊の大藩で幕府の重鎮が代々藩主を勤めていた武蔵の国の古都といっても過言ではない場所です。
戦国時代から河越合戦など河越の城を巡って重要な戦があり,江戸時代も江戸の重要な備えだったことから,さぞかし立派な城があったと思われますが・・・,
今はほとんど残っていないようです。
その数少ない川越の城を偲ばせる施設が本丸御殿なのですが,
残念ながら改装のため休館中だそうです。
開館は平成23年3月だそうです。
そのころ川越に来る用事があるだろうか。今の仕事しているか自体微妙なとこだからな・・・。
天地人は、もう記録抹殺刑(ダムナーテイオ・メモリアエ)にすべき。 ― 2009年06月01日 15時45分28秒
「天地人」
こりゃ久しぶりに酷い大河ドラマが出てきたものだと思ったものの、
ここ数回は、やや持ち直しの感が無くもなかった(ただし、最悪が悪になったくらい。)。
ところが、前回ときたら、こりゃあ酷い。
毛利元就が良作に見えてくる・・・。
細かいつっこみは山放題でどこから手をつけてよいのかわからなくなるので、とりあえず・・・
真田あ~。ひ・酷すぎる・・・。
智将真田昌幸が・・・まるで・・・バカ・・・。なんか食ってるし・・・。
真田家は弱小だから謀略で生きてきたあ?
真田家は勝つためには手段を選ばない・・・だと・・・?
当たり前だろう。世は戦国だぞー。まあ、もう、そこはいいよ。
それより、そんな方針・・・
相手に言うか?????
これは、詐欺師が、自分から世の中金だよ。自分は騙すのがうまいんだぜって自分から言うようなもんだろ・・・いかにもいい人だから詐欺師が成立するんじゃん。これじゃ謀略家じゃなくて、ただのアホだろ。
そんなこと言われたら謀略に引っかからないし、孤立して、大変なことに・・・ふ~
相手に謀略かと気づかせないから謀略なんだろう。つーか、戦国の世なら相手もそれを気づいてさー。承知の上でさー・・・もういいよ。
それに真田家は、ほかの家臣と比べても武田家に意外と忠義を尽くしてるべ。
幸村の上杉家老に対する態度・・・わかりやす過ぎなんだよ。もう。
あのさー、舞台じゃないんだから、いちいちしゃべらせるな。映像でわからせろ。技量がないのか?
日本映画がつまらないのは、舞台みたいに、わかりやすく作ろうとして、単調で現実離れしてるからなんだよ。バカみたいに怒鳴ったり喚いたりさ。
登場人物の性格が単調なんだよ。人間っていろんな感情の複合物だろ。複雑なところを見せろよ。せりふじゃなくて仕草に込めろよ。同じようなシチュエーションで同じような行動をする・・・とは限らないんだよ。ワン・パターンなんだよ。前にハッピーフライトの予告編流していたけど、本当に酷いよ。
話を戻すけど、CSでやってる真田太平記を見ると、雲泥の差どこじゃない。
丹波哲郎の昌幸を見てみろ。これが智将だ。
天地人の凡将昌幸で徳川に勝てるか~。脚本書き直せ~。
あいかわらず攻城戦なのに館で戦ってるし・・・
ここまで大河ドラマで腹立ったのは初めてだ・・・。
最近のコメント