大村湾は湖です。焦茶猫のよろずや商店大福帳

「でいご」の花の間を往く戦艦「土佐」?↓
↓バグのようですが,面白いので放っておきます。
戦艦「土佐」型島

三菱の方

古代史、勝手に解釈~日本完成2011年02月21日 20時25分04秒

・天武系王朝時代

さて、百済皇子の血を引く藤原氏は、旧百済勢力の支援と不比等の巧妙な政治手腕により、両朝合体と共に、大和貴族に組み入れられました。


もっとも、朝廷内では大和系と北九州系の勢力争いはあったでしょう。


藤原氏は、そのような天武朝内の後継者争いに乗じ、徐々にその地位を上げていきました。
藤原仲麻呂の乱などもそのような勢力争いの一つとして起きた事件でした。
藤原氏としては、北九州王朝はもう存在しません。大和の貴族として生き残ることを選択しています。


大和の貴族として地位を築き維持するには、百済を捨て、大和人になる必要がありました。
まず、氏神をどうするかという問題がありました。
このとき、出雲の神様に縁のある鹿島神宮から春日大社を氏神にした可能性があります。
鹿島神宮が神宮であり神宮は、伊勢神宮、宇佐神宮など皇室ゆかりの社号であることからすると、百済王の家系である藤原家の縁のある鹿島神宮とこれと密接な関係にある香取神宮が「神宮」号を名乗っていることも合点がいきます。
なんせ一国の王の家系ですから、それなりの権威はあったのでしょう(当時の百済の存在感は現在の比ではないでしょう。)。


さて、769年ころ道鏡事件というのが起きます。このときの舞台は宇佐神宮です。
なぜ伊勢神宮ではなく宇佐神宮なのか。疑問じゃないですか?
私はずっと疑問でした。
ですが、既に述べたように、天武天皇は宇佐神宮で即位しているのです。
だから道鏡に天皇になれとご神託するのは宇佐神宮以外あり得ないのです。
これで疑問は解決です。
ちなみに、宇佐神宮は、天智天皇の系統に皇統が変わったときにその地位を伊勢神宮に取って代わられます。
伊勢神宮は天智系の神宮だからです。


ちなみに、神社の礼拝方式は、一般に二礼二拍手一礼ですが、宇佐神宮と出雲大社は二礼四拍手一礼です。
後者は、被征服王朝に適用される形式なのです。
つまり天武朝は、天智朝復興により滅びますし、出雲朝も継体天皇の系統によって既に滅んでます。
ちなみに九州朝の宗像大社などは、とくにそのようなこともありません。
なぜなら天智朝は九州系だからです。

・平安時代へ

さて百済王家の藤原氏は、大和朝廷内の勢力争いを巧みに利用し徐々に力を盛り返してきます。
百済が滅亡した現在、藤原氏が実権を握っていけば、百済の地を支配している新羅と仲が悪くなるのは当然でしょう。一時は新羅遠征まで考えたほどです(これは百済復興の記憶と言っても過言ではないでしょう。)。


唐は強大で、その力は十分に見せつけられています。
現在百済の地を支配しているのは新羅であり、唐と新羅は親密とも言えません。そこで、唐とは関係修復を図ることにしました。


そして、百済王家系の藤原氏は、やがて百済系つまり倭国北九州王朝系の復活を企みます。倭国の有力者を大和に移したことが裏目に出ます。


このころ、天武系の皇子が次々と変死しています。


そして、ついに天武系最後の天皇が崩御します。
ここで、藤原氏は、ついに天智系の天皇を擁立します(もっとも、このころになると平治の乱の源氏平氏のように藤原氏の内部でどちらの系統に付くかで分裂して権力争いをしていたことから(例えば藤原の仲麻呂は大和側、藤原北家は北九州側)、北九州系復興の積極的な意思というより、大義名分として利用しただけかもしれません。)。


これが後々、朝廷内で圧倒的な権勢を藤原氏が奮った最大の要因となっていきます。倭国の系統を復活させた功は末代までの功であり、このあとの朝廷の実権を握ることに成功します。


さて、倭国の系統が復活したのは良いのですが、太宰府はすでに遠の朝廷ですし、関東から九州までの領土を見ると西に寄りすぎています。倭国の系統は復活しても倭国はもう滅んでいるのです。あるのは、国号を日本とする倭国と大和の統合王朝です。
これを分離することは、もうできません。
統合王朝をこれまでと整合性を保ちつつ継承していくほかありません。


宗像大社は、北九州朝第一の神宮ですが、両朝統合の時点で、頂点は大和ですから出雲大社同様神宮に次ぐ格と位置づけられることになります。
一度下げたものを上に持って行くと言うことはしません。
すでに北九州だけの日本ではありません。大和も含んだ新たな大帝国なのです。
そこで宗像大社に変わる天智天皇系の新たな神様が必要となります。


もともと、倭国は海軍が強く、海に縁のあった王朝でしたので、海に面した場所に作りたいというのが心情です。
もはや大和の日本国で日の本を名乗るくらいですから東側が理想です。また、遠すぎても困るので、紀伊半島から東に突き出た志摩半島の伊勢神宮にその役割を託すことになりました。
こうして、伊勢神宮が宇佐神宮を超えるようになったのです。
ちなみに宇佐神宮はすでに神宮であること、日本国は、融合した王朝であり倭と大和は一体のものとなっているので、王朝交代とはみなしていないことから、整合性を保つために宇佐神宮はそのままにして二番目に偉い神宮としてお祀りすることになりました。


ただし、天武系の祟りがないよう儀礼だけ変えて。


ちなみに、宗像大社は裏伊勢と呼ばれているそうです。
以上を読むと、もの凄く説得力ありません?


以後、日本国は、大和を中心に列島を「一つの地域」=「天下」と考えるようになり、半島は「異なる地域」=「異なる天下」と考えるようになります。
半島も倭と親密だった百済は既に無く、新羅もやがて滅び、王朝交代を経て古代とは全く異なる文化、風習、民族となっていきました。

以後、異世界との境界となった対馬海峡の交流は、激減します(特に国家レベル)。
もはや、「異なる地域」である半島へ遠征しようなど考えることもなくなります(豊臣の遠征や近代の半島支配は、全く性格が違いますからね。)。


自分たちが統一して支配すべき土地とみなさなくなったのですから当然です。


そして、文化も風習も独自に発展をしていきます。


こうして「日本」が完成しました。


神宮の位置


古代史、勝手に解釈~壬申の乱2011年02月20日 20時23分25秒

・壬申の乱(672)

さて、半島統一を目指した新羅としては、百済系の倭国は目障りでした。


しかし、今、新羅が戦っている相手は、あの唐王朝です。海を越えて攻め込む余裕はありません。
そこで、目を付けたのは、友好国である大和です。百済と倭国の関係ほど親密ではありませんが、仲は悪くありません。


さっそく、大和に倭国侵攻を持ちかけます。

これに応えたのは、当時の大和の大王であった大海人皇子、のちの天武天皇です。

このころ倭国では、前大王の筑紫君薩夜麻が帰国しました。
唐の力を見せつけられ従順になった前大王を送り返すことにより、唐に逆らわない政権を作ろうとしたのでしょう。しかし、古代において、権威というかカリスマを失うというのは致命的です。一度捕虜になってしまったため権威は地に墜ちており再び即位することは出来ませんでした。


しかし、混乱は生じたと思います。新羅派と天智天皇派との内部対立も起きたでしょう。もっとも天智天皇存命中は、それほど対立は表面化しませんでした。
そのようななか、天智天皇が671年に崩御しました。暗殺という説もあります。
天智天皇という倭国の有能な指導者がいなくなったことは倭国に大きな混乱をもたらします。


このチャンスを逃すわけにはいかないでしょう。
大海人皇子(大和大王)は、翌年、倭国討伐を開始します。


大和の大王は、大和の他、関東、美濃、尾張の軍勢を大動員します。
いくら弱体化しているとはいえ、相手は列島の最強国です。継体天皇の時は敗北しています。


対する倭国も迎撃態勢を整えようとしますが、筑紫などでは、唐・新羅派も居て(太宰府あたりまでは、事実上唐の占領下だったかもしれません。いずれにしろ彼らは大和に付いたと思われます。)、思うように兵の動員が出来ませんでした。
また、吉備地方は、白村江の戦い以降、倭を見限っており、完全に大和側となりました。


大和の大王(後の天武天皇)は、順調に太宰府までは進軍してきましたが、肥後の入り口(荒尾、玉名あたりか?)付近で迎撃してきた倭国軍と激戦となり、突破するのに相当苦労したようです。しかし、倭国内の新羅派の助けも借りて、当時、倭国の大王であった大津皇子をついに破り、ついに倭国を吸収し、関東から九州にいたる日本列島のほぼ統一を成し遂げます。


壬申の乱

大和軍の進路です。黒は行きで赤は帰りです。



このとき百済王子の中臣氏は壊滅しますが、運良く逃れた不比等により再興されます。


大海人皇子は、国号を「日本」とし、大王を超える王として「天皇」の称号を名乗ります。


中国で秦が統一したとき、周王の権威が墜ち、各地の諸侯が名乗っていた「王号」の上に立つ新たな称号として「皇帝」を名乗ったのと同じでしょう。


倭国と大和の統一を成し遂げ、「天皇」を名乗るための儀式を行ったのは、そうあの「宇佐神宮」です。
そう宇佐神宮の神託によって即位したのです。


ここで倭国と大和を統一する両大王を超える権威ある存在として天皇即位のご神託を受けて即位したのです。


そして、統一の証しとして倭国=北九州王朝と大和の組織・機構・伝統文化の合体の作業を開始します。その中で、倭国の建築物も大和に移転しました。


最終的には、太宰府の首都機能を廃止して九州の出先機関とし、太宰府の首都機能は、統一京としての藤原京、平城京に引き継がれていきます。


北九州王朝の皇族(天智天皇の子孫)、有力豪族も大和に移住させました。
天智天皇の家系は、倭国との統合の象徴として倭国統治の正当性を維持するために、実権はないものの副皇クラスの地位に就いたと思います。
もちろん、倭国残党による反乱を防ぐ意味もありました。


北九州王朝の皇族の皇女を皇后として迎えたことも両朝合体の証しでした。
持統天皇、元明天皇などは、臨時的に皇位に付いています(実権は夫皇子だったと思います)。かつての倭国は強力な国家でしたから、一時に、力で押さえつけるのは難しかったのかもしれません。
懐柔をしつつ、大和政権に取り込むことにより穏便に吸収する施策を採ったのでしょう。
倭国側も唐に対抗するために両国合体を受け入れたのかもしれません。
もしかしたら南北朝時代のときのように両朝交代の皇位継承が形式的にですが約されていた可能性もあります。


つまり、天武天皇(大和)→持統天皇(北九州)→文武天皇(大和)→元明天皇(北九州)というような皇位の継承パターンです。
文武天皇は草壁皇子(大和)と元明天皇(北九州)の皇子なので、もうこれは両朝合体といえます。元明天皇までは、約束が履行されましたが、両朝の系統が同一化するにつれ、その必要性は薄れていきます。以後は両朝の系統を継ぐ皇子皇女が皇位を継ぐことになりました。


天武天皇の皇子である草壁皇子が皇位を継がず持統天皇になった理由はこのような事情にあったのではないでしょうか。


さらに両朝融合の証しとして、両国の歴史・神話を合体させました。これにより日本国はもう倭国と大和に分けることは出来ません。


このようにして編纂されたのが日本書紀です。


このとき北九州王朝の出来事は、矛盾のないように調整され、大和王朝の歴史と統合しました。


つまり歴史の統一です。


両朝の歴史は、似た出来事は融合させ、倭国の出来事を地理的関係を整合させたうえで大和の地での出来事とし、人物も共通性のある人物を融合させたりして、一つの話として合体させました。


こうして統一日本が誕生しました。




古代史、勝手に解釈~白村江の戦い2011年02月19日 20時21分50秒

・白村江の戦い(663年)

さて、いよいよ古代史が混乱した一番の原因白村江の戦いです。
まさに、古代東アジアの関ヶ原、これが一番重要な出来事でした。
歴史への影響力という点では、関ヶ原の戦いよりはるかに重要な戦いであったと言えます。
この戦いにより、極東アジアの形が決まってしまったのですから。


百済に国内を統一した北九州王朝(倭国)は、満を持して、唐・新羅と戦うため倭国王自ら百済に出兵します。


しかし、結果は大敗。当時の倭国王(筑紫君薩夜麻)も捉えられて唐へ連行されてしまいます(661年斉明天皇筑紫にて死去の記述)。

白村江の戦い


本国で全権を掌握し、吉報を待っていた中大兄皇子は、慌てました。
水城を作り首都太宰府を防衛しようとしました。
また、敵の上陸に備え、領土である長門(山口県)から佐賀にかけて百済式の山城をいくつか建設しました。
水城や大野城は首都である太宰府を防衛する施設です。


唐軍は倭を破り百済を滅亡させた後もそのまま侵攻を継続し、郭ムソウに率いられた唐軍は、北九州に上陸します。


主力が壊滅していた倭国は、到底勝ち目はないと思ったのか、降伏を選択。唐軍は、ほぼ無抵抗で太宰府に入京し、倭国を占拠し、筑紫都督府を建てます。
マッカーサーの進駐軍のようなものです。筑紫都督府はさしずめGHQ本部と言ったとこでしょうか。
このとき中大兄皇子は、戦後処理に当たったか、さもなくば太宰府を捨て、肥後に撤退していた可能性があります(後者が有力か)。
唐軍がすぐに撤退したことから、倭国は唐に服従の意を示し、許しを請うたのだと思います。


唐軍は、666年の唐の高句麗征伐に併せて、半島に戻っていきます。唐としては高句麗征伐に全力を注ぎ込む時期であり、遠方にある倭国を維持する余裕はなかったことと、主力が壊滅し大王を失った倭国に唐に反抗する力は残っていないと判断したのでしょう(残存勢力は高句麗討伐の後でゆっくり倒せばいいと考えたのかもしれません。)。きっと、太宰府に元新羅派による従順な政府を作ったのでしょう。一部の兵力を残し、倭国から撤退します。このとき中大兄皇子は、中臣鎌足(豊璋)と共に肥後で息を潜めていたのだと思います。


中大兄皇子は、唐軍が撤退した直後の667年に肥後の国大津に都を建て倭国の倭国の大王(おおきみ)となると宣言し倭を復活させます。
もしかしたらですが、唐によって太宰府に傀儡政権が打ち立てられていて、これに対抗するために亡命政府を作ったのかもしれません。
ただ、のちの倭・大和合体の様子を見ると、大津の方が倭国正統と見られていたようなので、太宰府の暫定政府の力は大きくなく、唐軍が撤退すると、大津方が倭国を掌握したのでしょう。


大津遷都


ちなみに、教科書では、近江の大津に都を建てたとされていますが、これも疑問の一つだったことは既に述べました。なんで唐を恐れて大津に行くの?
唐軍が上陸するであろう九州から見たら距離的に大和も大津もそんなに変わらないですよね。どちらも盆地で難波から見て、寄れる要害の数(検地)も変わらないので、防衛の観点からもあまり変化がない。
唐が九州に上陸してから大和に行くまで距離があるわけですから、この距離的・防衛的利点のなさでは、あんまり説得力を感じません。
そんなに恐れるなら尾張とか諏訪とかに遷都するならまだ分かりますが。
さらにいえば、京などと呑気なものではなく、「要塞」と言えるほどの堅固なものを作るべきでしょう。九州ならともかく、大和まで侵攻してくるまでは時間もあるわけですから。
近江でも大津に作るくらいなら、普通、琵琶湖の反対側に作るのではないでしょうか。


この疑問も古代史に対する違和感として最初に日本史を学んだときから、ずっと残っていました。


この点、唐軍に博多に上陸された後、太宰府だと1カ所の要害を突破されれば終わりですが、肥後大津なら、筑後平野、玉名平野、熊本平野と進軍しなければなりませんので、各平野の入り口に要害を築くことが出来ます。




大津京


さて、このまま倭国は唐のものになるのかと思いましたが、倭国にとっては、幸いなことに、朝鮮半島では、戦勝国同志の対立が生じていました。
唐と新羅の関係が急激に冷え込んできたのです。
669年ころには新羅が高句麗遺臣を援助し蜂起させ、唐の支配する旧百済に再び侵攻を開始したのです。


古代史、勝手に解釈~大化の改新2011年02月18日 20時20分29秒

・そのころ北九州王朝(倭)は?

既に述べましたが、北九州王朝は距離的に近いこともあり百済との関係は親密で兄弟王国のような関係でした。
むしろ朝鮮半島・九州を含めて一つの勢力圏と考えており、朝鮮半島&九州を「統一」すべく朝鮮半島の国家と日夜戦い続けていました。
これは、出雲が新羅から遠く、途中に寄港する島も少ないこと、出雲自身が内陸に勢力を広げたこともあり、徐々に自立を深め新羅とは疎遠になっていったのとは対照的です。


ちなみに教科書では大和から朝鮮半島に攻めたことになっていますが、あんな古代に、あんな長距離をあまりに気軽に攻めすぎですよね。邪馬台国の時代からそんなに立っていないのに。
まるで隣の町に攻めるように気軽に出兵しています。
筆者が古代の大和政権に疑問を持ったのも、この違和感がそもそもの原因でした。
だって、船を集め兵糧を確保してって秀吉の朝鮮征伐だったあんなに大変だったのに、古代にですよ。あんな大軍を大和からホイホイ出せますかっての。


さて、時代は進行し、北九州・百済・高句麗連合と唐・新羅連合が形成され、争いはいよいよクライマックスに近づいてきます。倭国と関係の深かった中国南朝が滅亡したことも均衡が崩れる一因になったのでしょう。


唐はあの超大国唐です。当時の存在感は、経済力の増した現代の中国でさえ比ではありません。こいつが本格的に攻めてくるとなれば、誰しも動揺するでしょう。今で言えば、アメリカに喧嘩を売るようなものです。
そんなことを知ってか新羅は、百済側にちょっかいを出し始めます。


いくら百済と親密な北九州王朝といえども内部には、唐にビビって「唐・新羅に付いた方が良いんじゃない?」
って言う人も増えたでしょう。
百済派と新羅派の対立です。
とりわけ有力な重臣であった蘇我入鹿は、倭の大王(おおきみ)であった古人大兄皇子に取り入り、新羅派が力を付けてきていました。


ここで登場したのが、北九州王朝に留学(人質?)中だった百済王子豊璋。


何を隠そう、この人、のちの中臣鎌足さんです。
百済派と新羅派の対立し新羅派が力を付けるにつれ、百済王子として黙って見過ごすわけにはいきません。百済派の北九州朝の皇族に蜂起を促しましました。
その皇族というのが、のちに中大兄皇子と呼ばれる天智天皇です(大化の改新)。


百済王子の支援を受けた中大兄皇子ら百済派の人々は、新羅派に奇襲をかけて一掃。北九州王朝内を百済派でまとめます。中大兄皇子と豊璋は、丞相や摂政関白に相当する役職に就き政権を事実上掌握します。


このとき、古人大兄皇子は、「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言ったそうです。韓人、そう中臣鎌足こと百済王子豊璋のことです。
ちなみに古人大兄皇子は、退位させられたうえ、のちに中大兄皇子に攻め殺されてしまいます。


さて、中臣鎌足という人物も謎が多いですね。どこから出てきて、何でこんなに勢力を誇ったのか。いくら功臣とはいえ、ここまで子々孫々まで、朝廷で重臣の位に就けた豪族は、世界的にも存在しません。
確かに大化の改新での功績は大きいですが、同等の功を成した家臣は、後の世にも存在したのではないでしょうか。


でも百済王子なら納得できません?


中宮、皇后をこれだけ輩出したのも百済王との一体化(列島・半島支配の正当化)ということを考えれば、腑に落ちる気がします。


白村江の戦い前夜



古代史、勝手に解釈~出雲の興隆2011年02月17日 19時18分43秒

・4~6世紀ころ

このころ中国は南北朝時代です。朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の三国の形が固まった時代です。
列島の小国たちも、それぞれの出自に従って、まとまって行ったのだと思います。


このころの主な勢力を見てみますと、
北九州連合(百済系)
出雲連合(新羅系)
南九州(春秋時代からの呉越系)
日向、大和(三国の呉系)
関東(縄文人、呉越系、呉系等混合)
に分けられると思います。


出雲系の人たちは日本海岸に沿って新天地を求め、北陸地方・東北地方に進出したでしょう。
瀬戸内海(吉備地方)は、中間地点にあるので、各勢力の緩衝地帯として緊張状態にあったかもしれません。
そういう状況下で、少々独自色を強めたかもしれません。

古代勢力図




・6世紀ころ

各連合勢力の中で、呉系は朝鮮半島系と比べて、地理的にも本拠地から遠く新しい流入人口が少ないので、時代を経るに従って、いろいろ不利だったのではないでしょうか。


日向などは、呉系の新拠点のある大和とも遠く孤立しているので、ますます興隆する北九州王朝(倭)の圧迫を受けて従属したのではないかと思います。


大和も徐々に、新羅、百済系とくに出雲系の人々が日本海側の若狭・敦賀あたりから琵琶湖を通り、たくさん流入してきたと思います。近江(滋賀)や山城(京都)では、無視できない数になったと思います。


そうすると、呉系の基盤は当然ながら徐々に弱くなってくる。
基盤が弱くなってくると必然的に大和王朝内で対立内紛が起きやすくなる。
王朝交代や内乱が頻発するようになってきたと思います。


その隙を逃さなかったのは出雲王朝です。
大和王朝内のある一派(新羅系?)が密かに、北陸方面の長官(おそらく出雲王の一族)だった人物と結びました。そして、彼に援軍を要請したのです。そのときの北陸総督、そう、これが後の継体天皇です。

継体天皇は、その軍事的才能とカリスマから近江に攻め込み、苦戦を強いられながらも遂には大和に進入し、やがて勢力下に置きます。


継体天皇大和入り


しかし、大和にとって外様であった継体天皇の基盤は武力です。内をまとめるには、みんなの目を外に向ける必要があります。国内に不満があるときに他国に絡む。歴史から見ると常套手段ですよね。
それが遠征の繰り返しに繋がります。


ヤマトタケル伝説にある関東への東征もこの頃行われたのでしょう。
しかし、北九州遠征は失敗してしまいました。これは歴史上磐井の乱と呼ばれているものです。


当初は勢いよく攻め込み、その猛将ぶりから一時は北九州王朝の首都太宰府を攻め落とす勢いを見せますが、敵中深く進入しすぎたため、兵站が伸びきってしまいました。
北九州王朝(倭)は、当時、同じ地域とみなされていた朝鮮半島&九州を「統一」するため日夜、半島の王朝と戦っていました。中国・半島からの最新の技術・国家体制も伝播しています。


北九州王朝(倭)は、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王を名乗り、中国南朝から、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に封ぜられるほどの勢力を誇っていました。ちなみにこの7国というのが当時、北九州王朝が自国が統一すべき「天下」と考え戦っていた「一つの地域」なのです。
このあたりの世界観は、現代とは、感覚が全く異なるのです。


鍛えられ方が違うため国家の体制、軍事の質・量ともに関東などの他王朝とはレベルが違いました。当時、国際社会(中国)に日本列島の代表とみなされていたのも北九州王朝(倭)です。


継体天皇は、北九州王朝(倭)の磐井王の子葛子王の反撃に遭い手痛い敗北を喫してしまいます。

さて、百済を背後に擁する北九州王朝(倭)は倒せなかったものの大和・関東を手に入れ強大化した北陸の出雲王の分家は、本家の出雲王家の勢力を凌ぐようになり段々独立色を強めていくようになりました。
このころ大和の大王になったかもしれません。


やがて、出雲王家に蔓延る奸賊を討伐するとか大義を掲げ、王家内の内紛につけ込むなどして出雲へ遠征したのでしょう。よくあることです。


出雲の政権を掌握した大和の大王は、本家である出雲王家に政権を譲渡させました(国譲りの伝説)。
もっとも、本家筋をそう簡単に潰せるものではありません。
大義がないと反感を招きます。


そこで、本家の政治的実権は奪ったものの、祖先の王の祭祀のみを行う家系として存続することを許したのだと思います(出雲大社と出雲国造家)。最初は、実権を奪って名目のみ尊重し、頃合いを見て、名目も奪っていくというのも穏便な権力奪取の常套手段です。

もっとも、祟りを恐れてか儀礼方式に少々細工をしたようですが。
出雲大社の参拝方式は、他と少し違いますよね。


ちなみに出雲大社は出雲王朝、宗像大社(筥崎宮は廟?)は北九州王朝で被征服王朝の社は大社扱いのようです。
前後関係はわかりませんが、既に述べたように、関東も東征により出雲分家による王朝に併合されています。
こうして、出雲から関東にいたる第二次大和王朝が誕生したというわけです。


出雲征服