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「でいご」の花の間を往く戦艦「土佐」?↓
↓バグのようですが,面白いので放っておきます。
戦艦「土佐」型島

三菱の方

古代史、勝手に解釈~大化の改新2011年02月18日 20時20分29秒

・そのころ北九州王朝(倭)は?

既に述べましたが、北九州王朝は距離的に近いこともあり百済との関係は親密で兄弟王国のような関係でした。
むしろ朝鮮半島・九州を含めて一つの勢力圏と考えており、朝鮮半島&九州を「統一」すべく朝鮮半島の国家と日夜戦い続けていました。
これは、出雲が新羅から遠く、途中に寄港する島も少ないこと、出雲自身が内陸に勢力を広げたこともあり、徐々に自立を深め新羅とは疎遠になっていったのとは対照的です。


ちなみに教科書では大和から朝鮮半島に攻めたことになっていますが、あんな古代に、あんな長距離をあまりに気軽に攻めすぎですよね。邪馬台国の時代からそんなに立っていないのに。
まるで隣の町に攻めるように気軽に出兵しています。
筆者が古代の大和政権に疑問を持ったのも、この違和感がそもそもの原因でした。
だって、船を集め兵糧を確保してって秀吉の朝鮮征伐だったあんなに大変だったのに、古代にですよ。あんな大軍を大和からホイホイ出せますかっての。


さて、時代は進行し、北九州・百済・高句麗連合と唐・新羅連合が形成され、争いはいよいよクライマックスに近づいてきます。倭国と関係の深かった中国南朝が滅亡したことも均衡が崩れる一因になったのでしょう。


唐はあの超大国唐です。当時の存在感は、経済力の増した現代の中国でさえ比ではありません。こいつが本格的に攻めてくるとなれば、誰しも動揺するでしょう。今で言えば、アメリカに喧嘩を売るようなものです。
そんなことを知ってか新羅は、百済側にちょっかいを出し始めます。


いくら百済と親密な北九州王朝といえども内部には、唐にビビって「唐・新羅に付いた方が良いんじゃない?」
って言う人も増えたでしょう。
百済派と新羅派の対立です。
とりわけ有力な重臣であった蘇我入鹿は、倭の大王(おおきみ)であった古人大兄皇子に取り入り、新羅派が力を付けてきていました。


ここで登場したのが、北九州王朝に留学(人質?)中だった百済王子豊璋。


何を隠そう、この人、のちの中臣鎌足さんです。
百済派と新羅派の対立し新羅派が力を付けるにつれ、百済王子として黙って見過ごすわけにはいきません。百済派の北九州朝の皇族に蜂起を促しましました。
その皇族というのが、のちに中大兄皇子と呼ばれる天智天皇です(大化の改新)。


百済王子の支援を受けた中大兄皇子ら百済派の人々は、新羅派に奇襲をかけて一掃。北九州王朝内を百済派でまとめます。中大兄皇子と豊璋は、丞相や摂政関白に相当する役職に就き政権を事実上掌握します。


このとき、古人大兄皇子は、「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言ったそうです。韓人、そう中臣鎌足こと百済王子豊璋のことです。
ちなみに古人大兄皇子は、退位させられたうえ、のちに中大兄皇子に攻め殺されてしまいます。


さて、中臣鎌足という人物も謎が多いですね。どこから出てきて、何でこんなに勢力を誇ったのか。いくら功臣とはいえ、ここまで子々孫々まで、朝廷で重臣の位に就けた豪族は、世界的にも存在しません。
確かに大化の改新での功績は大きいですが、同等の功を成した家臣は、後の世にも存在したのではないでしょうか。


でも百済王子なら納得できません?


中宮、皇后をこれだけ輩出したのも百済王との一体化(列島・半島支配の正当化)ということを考えれば、腑に落ちる気がします。


白村江の戦い前夜



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