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「でいご」の花の間を往く戦艦「土佐」?↓
↓バグのようですが,面白いので放っておきます。
戦艦「土佐」型島

三菱の方

古代史、勝手に解釈~壬申の乱2011年02月20日 20時23分25秒

・壬申の乱(672)

さて、半島統一を目指した新羅としては、百済系の倭国は目障りでした。


しかし、今、新羅が戦っている相手は、あの唐王朝です。海を越えて攻め込む余裕はありません。
そこで、目を付けたのは、友好国である大和です。百済と倭国の関係ほど親密ではありませんが、仲は悪くありません。


さっそく、大和に倭国侵攻を持ちかけます。

これに応えたのは、当時の大和の大王であった大海人皇子、のちの天武天皇です。

このころ倭国では、前大王の筑紫君薩夜麻が帰国しました。
唐の力を見せつけられ従順になった前大王を送り返すことにより、唐に逆らわない政権を作ろうとしたのでしょう。しかし、古代において、権威というかカリスマを失うというのは致命的です。一度捕虜になってしまったため権威は地に墜ちており再び即位することは出来ませんでした。


しかし、混乱は生じたと思います。新羅派と天智天皇派との内部対立も起きたでしょう。もっとも天智天皇存命中は、それほど対立は表面化しませんでした。
そのようななか、天智天皇が671年に崩御しました。暗殺という説もあります。
天智天皇という倭国の有能な指導者がいなくなったことは倭国に大きな混乱をもたらします。


このチャンスを逃すわけにはいかないでしょう。
大海人皇子(大和大王)は、翌年、倭国討伐を開始します。


大和の大王は、大和の他、関東、美濃、尾張の軍勢を大動員します。
いくら弱体化しているとはいえ、相手は列島の最強国です。継体天皇の時は敗北しています。


対する倭国も迎撃態勢を整えようとしますが、筑紫などでは、唐・新羅派も居て(太宰府あたりまでは、事実上唐の占領下だったかもしれません。いずれにしろ彼らは大和に付いたと思われます。)、思うように兵の動員が出来ませんでした。
また、吉備地方は、白村江の戦い以降、倭を見限っており、完全に大和側となりました。


大和の大王(後の天武天皇)は、順調に太宰府までは進軍してきましたが、肥後の入り口(荒尾、玉名あたりか?)付近で迎撃してきた倭国軍と激戦となり、突破するのに相当苦労したようです。しかし、倭国内の新羅派の助けも借りて、当時、倭国の大王であった大津皇子をついに破り、ついに倭国を吸収し、関東から九州にいたる日本列島のほぼ統一を成し遂げます。


壬申の乱

大和軍の進路です。黒は行きで赤は帰りです。



このとき百済王子の中臣氏は壊滅しますが、運良く逃れた不比等により再興されます。


大海人皇子は、国号を「日本」とし、大王を超える王として「天皇」の称号を名乗ります。


中国で秦が統一したとき、周王の権威が墜ち、各地の諸侯が名乗っていた「王号」の上に立つ新たな称号として「皇帝」を名乗ったのと同じでしょう。


倭国と大和の統一を成し遂げ、「天皇」を名乗るための儀式を行ったのは、そうあの「宇佐神宮」です。
そう宇佐神宮の神託によって即位したのです。


ここで倭国と大和を統一する両大王を超える権威ある存在として天皇即位のご神託を受けて即位したのです。


そして、統一の証しとして倭国=北九州王朝と大和の組織・機構・伝統文化の合体の作業を開始します。その中で、倭国の建築物も大和に移転しました。


最終的には、太宰府の首都機能を廃止して九州の出先機関とし、太宰府の首都機能は、統一京としての藤原京、平城京に引き継がれていきます。


北九州王朝の皇族(天智天皇の子孫)、有力豪族も大和に移住させました。
天智天皇の家系は、倭国との統合の象徴として倭国統治の正当性を維持するために、実権はないものの副皇クラスの地位に就いたと思います。
もちろん、倭国残党による反乱を防ぐ意味もありました。


北九州王朝の皇族の皇女を皇后として迎えたことも両朝合体の証しでした。
持統天皇、元明天皇などは、臨時的に皇位に付いています(実権は夫皇子だったと思います)。かつての倭国は強力な国家でしたから、一時に、力で押さえつけるのは難しかったのかもしれません。
懐柔をしつつ、大和政権に取り込むことにより穏便に吸収する施策を採ったのでしょう。
倭国側も唐に対抗するために両国合体を受け入れたのかもしれません。
もしかしたら南北朝時代のときのように両朝交代の皇位継承が形式的にですが約されていた可能性もあります。


つまり、天武天皇(大和)→持統天皇(北九州)→文武天皇(大和)→元明天皇(北九州)というような皇位の継承パターンです。
文武天皇は草壁皇子(大和)と元明天皇(北九州)の皇子なので、もうこれは両朝合体といえます。元明天皇までは、約束が履行されましたが、両朝の系統が同一化するにつれ、その必要性は薄れていきます。以後は両朝の系統を継ぐ皇子皇女が皇位を継ぐことになりました。


天武天皇の皇子である草壁皇子が皇位を継がず持統天皇になった理由はこのような事情にあったのではないでしょうか。


さらに両朝融合の証しとして、両国の歴史・神話を合体させました。これにより日本国はもう倭国と大和に分けることは出来ません。


このようにして編纂されたのが日本書紀です。


このとき北九州王朝の出来事は、矛盾のないように調整され、大和王朝の歴史と統合しました。


つまり歴史の統一です。


両朝の歴史は、似た出来事は融合させ、倭国の出来事を地理的関係を整合させたうえで大和の地での出来事とし、人物も共通性のある人物を融合させたりして、一つの話として合体させました。


こうして統一日本が誕生しました。