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「でいご」の花の間を往く戦艦「土佐」?↓
↓バグのようですが,面白いので放っておきます。
戦艦「土佐」型島

三菱の方

古代史、勝手に解釈~出雲の興隆2011年02月17日 19時18分43秒

・4~6世紀ころ

このころ中国は南北朝時代です。朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の三国の形が固まった時代です。
列島の小国たちも、それぞれの出自に従って、まとまって行ったのだと思います。


このころの主な勢力を見てみますと、
北九州連合(百済系)
出雲連合(新羅系)
南九州(春秋時代からの呉越系)
日向、大和(三国の呉系)
関東(縄文人、呉越系、呉系等混合)
に分けられると思います。


出雲系の人たちは日本海岸に沿って新天地を求め、北陸地方・東北地方に進出したでしょう。
瀬戸内海(吉備地方)は、中間地点にあるので、各勢力の緩衝地帯として緊張状態にあったかもしれません。
そういう状況下で、少々独自色を強めたかもしれません。

古代勢力図




・6世紀ころ

各連合勢力の中で、呉系は朝鮮半島系と比べて、地理的にも本拠地から遠く新しい流入人口が少ないので、時代を経るに従って、いろいろ不利だったのではないでしょうか。


日向などは、呉系の新拠点のある大和とも遠く孤立しているので、ますます興隆する北九州王朝(倭)の圧迫を受けて従属したのではないかと思います。


大和も徐々に、新羅、百済系とくに出雲系の人々が日本海側の若狭・敦賀あたりから琵琶湖を通り、たくさん流入してきたと思います。近江(滋賀)や山城(京都)では、無視できない数になったと思います。


そうすると、呉系の基盤は当然ながら徐々に弱くなってくる。
基盤が弱くなってくると必然的に大和王朝内で対立内紛が起きやすくなる。
王朝交代や内乱が頻発するようになってきたと思います。


その隙を逃さなかったのは出雲王朝です。
大和王朝内のある一派(新羅系?)が密かに、北陸方面の長官(おそらく出雲王の一族)だった人物と結びました。そして、彼に援軍を要請したのです。そのときの北陸総督、そう、これが後の継体天皇です。

継体天皇は、その軍事的才能とカリスマから近江に攻め込み、苦戦を強いられながらも遂には大和に進入し、やがて勢力下に置きます。


継体天皇大和入り


しかし、大和にとって外様であった継体天皇の基盤は武力です。内をまとめるには、みんなの目を外に向ける必要があります。国内に不満があるときに他国に絡む。歴史から見ると常套手段ですよね。
それが遠征の繰り返しに繋がります。


ヤマトタケル伝説にある関東への東征もこの頃行われたのでしょう。
しかし、北九州遠征は失敗してしまいました。これは歴史上磐井の乱と呼ばれているものです。


当初は勢いよく攻め込み、その猛将ぶりから一時は北九州王朝の首都太宰府を攻め落とす勢いを見せますが、敵中深く進入しすぎたため、兵站が伸びきってしまいました。
北九州王朝(倭)は、当時、同じ地域とみなされていた朝鮮半島&九州を「統一」するため日夜、半島の王朝と戦っていました。中国・半島からの最新の技術・国家体制も伝播しています。


北九州王朝(倭)は、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王を名乗り、中国南朝から、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に封ぜられるほどの勢力を誇っていました。ちなみにこの7国というのが当時、北九州王朝が自国が統一すべき「天下」と考え戦っていた「一つの地域」なのです。
このあたりの世界観は、現代とは、感覚が全く異なるのです。


鍛えられ方が違うため国家の体制、軍事の質・量ともに関東などの他王朝とはレベルが違いました。当時、国際社会(中国)に日本列島の代表とみなされていたのも北九州王朝(倭)です。


継体天皇は、北九州王朝(倭)の磐井王の子葛子王の反撃に遭い手痛い敗北を喫してしまいます。

さて、百済を背後に擁する北九州王朝(倭)は倒せなかったものの大和・関東を手に入れ強大化した北陸の出雲王の分家は、本家の出雲王家の勢力を凌ぐようになり段々独立色を強めていくようになりました。
このころ大和の大王になったかもしれません。


やがて、出雲王家に蔓延る奸賊を討伐するとか大義を掲げ、王家内の内紛につけ込むなどして出雲へ遠征したのでしょう。よくあることです。


出雲の政権を掌握した大和の大王は、本家である出雲王家に政権を譲渡させました(国譲りの伝説)。
もっとも、本家筋をそう簡単に潰せるものではありません。
大義がないと反感を招きます。


そこで、本家の政治的実権は奪ったものの、祖先の王の祭祀のみを行う家系として存続することを許したのだと思います(出雲大社と出雲国造家)。最初は、実権を奪って名目のみ尊重し、頃合いを見て、名目も奪っていくというのも穏便な権力奪取の常套手段です。

もっとも、祟りを恐れてか儀礼方式に少々細工をしたようですが。
出雲大社の参拝方式は、他と少し違いますよね。


ちなみに出雲大社は出雲王朝、宗像大社(筥崎宮は廟?)は北九州王朝で被征服王朝の社は大社扱いのようです。
前後関係はわかりませんが、既に述べたように、関東も東征により出雲分家による王朝に併合されています。
こうして、出雲から関東にいたる第二次大和王朝が誕生したというわけです。


出雲征服



民主比例16人衆2011年02月17日 20時03分33秒

民主党の国会議員16人が離党しないで会派離脱を表明したそうだ。


理由は、マニフェストが実行されないからということで、小沢氏の問題とは関係ないそうだ。


しかし、小沢氏を尊敬しているだの何のって・・・


それはともかく、離党しないで会派離脱という方法は何とも言えない。
比例代表選出議員だからか?
党が嫌だから会派のみ離脱というのは、筋は通ってない。


亀井氏が言っていた、民主党は、「連合赤軍を思い出す」と言ったのは、この動きを言っていたのか・・・。


たしかに酷い内ゲバだ。
小沢グループって、いつから小沢元代表を絶対視する任侠集団になったんだ?


でも、解散しても誰も期待できないし・・・伸晃とかしんじろうとか弁は立つけどどうも薄っぺらいし・・・。
おそらく最低の投票率になるだろう。


このまま、何もしない方がましだったりして・・・




と、思いましたが、小沢グループが離党して、解散になれば、岡田・前原グループは別々か一緒かは分かりませんが、新党を作るでしょう。


あの16人は、民主党という泥船から脱出する動きの一環という説もありますが、ありえません。
なぜなら彼ら自身が泥船だからです。


解散となると小沢グループは、小泉チルドレンと同じ運命をたどります。
鳩山が河村や原口に近づいて新党を作るという報道もあるようですが、鳩山さんはともかく、河村、原口は、距離を置こうとするでしょう。彼らは、バカじゃありません。友愛より泥船に乗らないことを望むでしょう。


そうすると、政界再編に繋がるかもしれません。
ここで自民党も割れてくれればいいのですが、それは困難かもしれませんね。


岡田・前原新党と自民党の一部か全部(一部が良い)がくっついた連立政権が誕生するかもしれません。



それはそれでいいかな(今よりはマシか)。